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汽水域を生きる
上野の美術館で、プラド美術館所蔵「ゴヤ:光と影」展を観ました。当展の呼び物は有名な『着衣のマハ』でしたが、それにも増して会場スペースの大半を占めるゴヤの版画の数々に見応えがありました。
堀田善衛氏の大著ゴヤ評伝の図版で見知ってはいますが、実物を見るのは初めてです。『きまぐれ』『戦争の惨禍』などのこれら版画集は、他人の注文によらず自らの意思によって創作されたものですから、すでにその制作態度は現代画家に通じています。
そればかりではなく、作品は前時代的な宗教裁判や聖職者の堕落などを痛烈に揶揄し批判し、フランス軍の侵攻によって罪なき人々が虫けらのように死に追いやられる様を冷徹に、あるがままに描くことによって国家の暴力に対して激しい抗議を表しています。すなわち、ゴヤは自分の生きる「いま」を記録し、伝えるというジャーナリストの眼を持った人であり、その意味でも今日的なのです。
アラゴンの寒村から身を立て、宮廷画家として名をあげたゴヤは、元をただせば絶対王政による社会秩序と常識の中に生きた18世紀人でした。ところが時代は宮廷お抱え画家の安泰を許さなかったのです。18世紀から19世紀へと舞台は回り、世界史を二分したフランス革命は画家の人生までも木の葉のように翻弄したのでした。晩節はフランスに亡命を余儀なくされ、ボルドーで生涯を閉じました。
ゴヤから200年遡ったスペインに、時代の変転に翻弄されたもう一人の歴史の証人がいます。それは『ドン・キホーテ』生みの親セルバンテス。若いころに十字軍の名残ともいうべきレパントの海戦に一兵卒として応召し、激戦の中被弾して重傷を負いました。しかも帰還途中にサラセンの海賊に捕囚され、身代金目当ての奴隷としてアルジェで5年間奴隷の身をかこち、やっとの思いで帰国しても職は無く、ようやくありついた官職は、「無敵艦隊」イギリス遠征の食糧徴発という嫌われ役でした。その無敵艦隊はあっけなく敗退し、陽の沈むことなきスペイン帝国はヨーロッパ辺境の地へと、もんどりうって落ちて行くのでした。
セルバンテスはそのような時代を生きました。おりしも16世紀から17世紀へと章が改まり、後の言葉でいう「近代」が到来したのです。「中世」騎士道かぶれの変人ドン・キホーテは「近代」に登場してこそ可笑しさの落差を生むのです。
たとえて言えばテレビの水戸黄門に心酔した隠居が近所の八五郎を従えて、いでたちもドラマさながらに世直しの旅に出る、というのがこの物語の骨格です。出会う人は東映太秦映画村の役者さんが来た、と思いきや、大真面目で抜き身の真剣をふるうものですから大騒ぎになるというドタバタ劇。贋作ドン・キホーテの出るほど人気を博したのは、その時代錯誤ぶりが当時の現代人の笑いをおおいに誘ったからでしょう。
ゴヤは難病で聴覚を失い、セルバンテスは戦争で左手の自由を失いましたが、残った眼力で時代の流れを省みぬ王家の卑しさを看破し、残った右手でこの国に残る旧弊を痛烈に揶揄した点において二人はともに天才として後世に名をとどめました。
しかし、さらにこの両者に通じるのは、ともに「時代の汽水域」を生きたという点なのです。
ゴヤからさらに200年がたち、20世紀は21世紀へと改まりました。私たちもまた、時代の汽水域を生きています。コミュニケーション・ビジネス環境も例外ではありません。IT革命は情報産業史を二分する出来事です。経済のグローバル化によって古代にはヨーロッパの源泉であったギリシャ、ローマの債券信用不安が日本にも飛び火する時代です。
汽水域を生きる者は否応なく過去と未来に向き合わねばなりません。
ゴヤは王家の愚鈍と無能を描ききることによって旧弊との決別を図りましたが、セルバンテスはドン・キホーテの昔回帰を揶揄しながらもその明治の気骨のように純粋な志の高さには暖かい眼差しを送りました。過去と向き合うとは、棄てるべき過去と残すべき過去を峻別することです。
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未来は誰にもわかりません。しかし間違いなくやってきます。未来に向き合うとは、いち早く受容すべきことと、未然に到来を防ぐべきことをマネジメントすることです。特に情報に携わる私たちは、これらのマネジメントを社会に提供する役割があり、そのために常に未来を学ぶ姿勢を忘れてはならないのです。
セルバンテスは晩節に至り作家となり、近代文学の嚆矢となる作品を残しました。
ゴヤは80歳を過ぎても衰えた視力で絵を描き続けました。その中の一枚、両の手に杖をつき、まさに前に出ようとする白髪白髯の老人のデッサンがあります。
詞書に曰く「おれはまだ学ぶぞ!」。
ナポレオン失脚によって復位した反動国王フェルナンド7世の弾圧を恐れてゴヤは亡命先で客死しましたが、この国王は今日のプラド美術館を創設したことでも知られています。亡命画家の作品がその美術館の至宝として所蔵され、はるか日本にも渡来するのは、なんとも歴史の皮肉というしかありません。



