沿革
2016年9月20日に
株式会社電通パブリックリレーションズはお陰さまで創立55年を迎えました。
7人の社員で開業した当社は、
日本のPR業界の草分け的存在として、
日本の成長とともに年を重ねてきました。
この当社の歴史ページで
当社の今までの歩みの片りんを
皆さまにもご覧いただければ幸いです。
1961年9月20日、株式会社電通PRセンター(現:電通パブリックリレーションズ)を東京の銀座にて創業。
初代代表取締役社長永田久光のもと、7人の社員で開業。この創業当時の7人の社員は、”7人の侍”と言われている。(右写真:左から秋山数馬、東平功将、吉田勇、秋山幸作、岡本宏、辻力、永柳徹二)
1964年には大阪支社が開設された。


- 1961年(昭36)9月
- 銀座『テレビ会館』(現:電通恒産第3ビル/中央区銀座2-16-7)9階の一室に事務所開設。

銀座テレビ会館(現:電通恒産第3ビル)。
首都高の場所には運河が流れていた。

山一證券との業務について書かれている。
- 1963年(昭38)5月
- 本社をエントツビル(銀座東3-1:当時)に移転

通称煙突ビルと呼ばれた。
- 1964年(昭39)1月
- 大阪支社開設 業務開始

1968年11月、十時柾秀が第2代社長に就任。十時は、1975年に設立された日本PR業協会の初代会長に選任される。1969年には本社の社屋を銀座2丁目の電通恒産第1ビルに移転。


電通PRセンターは漢字テレタイプ装置を完成。
全国の新聞社に向けて産業界のニュースを速報した。
- 1969年(昭44)12月
- 本社を電通恒産第1ビル(中央区銀座2-16-7)に移転。分散していた事務所を統合。


メディアリレーションズスタッフ専用車を複数所有し、
社員はこの車に乗って各新聞社・出版社へ
プロモートに向かった。
1970年6月、『日本万国博覧会』観察のため来日した米大手PR会社ルーダー・アンド・フィンの副社長ノーマン・ワイズマン氏が当社を訪問。十時社長と会談し、日本のPR会社と業務連携したいという申し入れを受けた。翌7月にR&F社との業務提携に関して正式に調印。9月にはR&F社のリエゾンオフィスが当社内にできた。1973年6月1日、電通名古屋支社内に当社名古屋支局を開設。1976年11月、伴信雄が第3代社長に就任。伴は1980年に2つのPR団体が大同団結して発足した日本パブリック・リレーションズ協会の初代理事長に就任している。

- 1973年(昭43)5月12日
- 大阪支社を大阪市東区高麗橋へ移転。


社内の電話交換手が電話を取り次いで
外部に電話をかけていた。
1984年10月、九州支社を福岡市に開設。1985年2月には、大阪支社が北区堂島に移転。同年6月、田中一徹が第4代社長に就任。1989年には、黒水恒男が第5代社長に就任した。



社内に初めてファクシミリが導入され、
テープカットのセレモニーまで行われた。

九州支局開局フォーラムが開催された。
- 1985年(昭60)2月
- 大阪支社を大阪市北区堂島へ移転。

1991年、国際PR協会(IPRA)のゴールデン・ワールド・アワーズ・フォー・エクセレンスで初めて賞を受賞。電通PRセンターは2部門で受賞したが、文化シヤッター(株)のプロジェクト「シャッター壁画『浅草絵巻』は、『International Public Relations ー Case Studies』(サム・ブラック著)でも取り上げられた。1995年6月、藤井茂博が第6代社長に就任。翌年9月20日、社名を電通パブリックリレーションズに変更。1999年6月、第7代社長に岩本一彦が就任。



文化シャッターのプロジェクト「シャッター壁画『浅草絵巻』」が、IPRAゴールデン・ワールド・アワーズ・フォー・エクセレンスの「アート&カルチャー」部門にて最優秀賞を受賞した。
- 1996年(平8)
- 株式会社 電通パブリックリレーションズ(電通PR)へ社名変更
2004年6月、第8代社長に宮下氏孝が就任。2005年、国際PR協会(IPRA)のゴールデン・ワー ルド・アワーズ・フォー・エクセレンスで初めてグランプリを受賞。受賞したのは、当社がエーザイ、ファイザーのために手がけた『Dementia Debunked (仮面をはがされた認知症)』。2007年6月、第9代社長に安藤克彦が就任。その後、2009年6月、石松茂樹が第10代社長に就任。同年11月には、当社が中央酪農会議のために実施したキャンペーンが、アジア・パシフィックPRアワードで最高賞のキャンペーン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

宮下氏孝

安藤克彦

石松茂樹
- 2002年(平14)
- 株式会社 共同通信ピー・アール・ワイヤーに出資
- 2003年(平15)10月
- 分散していた事務所を電通恒産第3ビルに統合。


IPRAゴールデン・ワールド・アワーズ・フォー・エクセレンスで、
初めてグランプリを受賞。

アジア・パシフィックPRアワードで
最高賞BtoBビジネス・キャンペーン・オブ・
ザ・イヤーを受賞。
2010年7月、電通PRは電通、および中国のPR会社藍色光標(ブルーフォーカス)と共同出資で電通藍標(北京)公共関係顧問有限公司を設立。2011年6月、第11代社長に近見竹彦が就任。2012年1月に銀座二丁目から築地五丁目に本社を移転。2012年、「PRSJ認定PRブランナー」が101人となり、社員・役員に占める割合が44.9%になった。101人という数字は一組織に所属する人数としては最多である。
2015年9月、「The Holmes Report」より、その年で最も優れた日本のPR会社として、「2015ジャパン・コンサルタンシー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。
2016年3月、第12代社長に畔柳一典が就任。2017年9月、東京本社を中央区築地から港区東新橋に移転、同年11月に関西支社を大阪市北区堂島から同区中之島に移転。2018年、「The Holmes Report」より「北アジアPRコンサルタンシー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。2019年には、国際PR協会「Golden World Awards for Excellence」で最高賞となるグランプリを受賞。


- 2010年(平22)
- 電通藍標(北京)公共関係顧問有限公司共同出資・設立
- 2012年(平24)1月
- 本社を中央区築地
浜離宮三井ビルディング(中央区築地5丁目6番4号)に移転。


PRSJ認定PRプランナーの数が101人となり
社員のほぼ2人に1人は認定プランナーとなった。
- 2015年(平27)、「The Holmes Report」より、
その年で最も優れた日本のPR会社として、
「2015ジャパン・コンサルタンシー・
オブ・ザ・イヤー」受賞
- 2017年(平29)9月
- 本社を港区東新橋
汐留シティセンター(港区東新橋1丁目5番2号)に移転。


関西支社を大阪市北区中之島 フェスティバルタワー・ウエスト(北区中之島3-2-4)に移転
- 2018年、「The Holmes Report」より
「北アジアPRコンサルタンシー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。
- 2019年、国際PR協会「Golden World Awards for Excellence」で最高賞となるグランプリを受賞。

2020年1月、Apriori World主催「PRO PRアワーズ」にて、畔柳社長が日本のPRプロフェッショナルとして初めて「PRO PRグローブアワード」を受賞。
3月、第13代社長に牧口征弘が就任。

- 2020年1月、畔柳社長、Apriori World主催「PRO PRアワーズ」にて「PRO PRグローブアワード」を受賞。
